MAGAZINE / 21 · SALT

同じ温度に同じだけつかっても、湯上がりの温かさの続き方には差が出る。塩化物泉では、肌に残った塩分が汗の蒸発を抑えると考えられてきた。湯の特性は、浴槽の中ではなく出たあとの肌の上にあらわれる。

からだ・効能

湯気の立つ浴槽の縁と、あふれて流れる湯

温泉水1キログラムあたりの溶存物質の総量は、しばしば1,000ミリグラムという境界線を超えていく。同じ42度の湯に同じ10分間浸かったとしても、湯船から上がったあとの体の温まり方には明らかな違いが生まれる。

自宅の風呂で沸かしたさら湯や一部の温泉では、脱衣所に出て体を拭くとすぐに熱が逃げていく。冷たい風に触れると皮膚の表面が冷え、湯冷めと呼ばれる現象が始まる。これに対して特定の湯では、服を着て歩き出してもいつまでも汗が引きにくく、皮膚の表面から熱が逃げていかない。

熱い湯に入れば体温が上がるのはどの風呂でも同じである。違いが生じるのは、湯から出たあとの数十分から数時間にかけての時間帯だ。同じ温度計の数値を示していたはずの湯が、なぜ湯船を出たあとの体感でこれほど大きな差を生むのか。その違いの根本は、湯船の中での熱の伝わり方だけでなく、湯から出たあとの肌の表面で起きる物理的な現象にある。

この湯上がりの温かさを持続させる泉質は、温泉法に基づく療養泉の分類において塩化物泉と呼ばれてきた。昭和23年に温泉法が制定されて以来、国は温泉の定義や保護を進め、厚生省や環境省は通知や基準の改訂を重ねながら温泉の適応症や禁忌症を整理してきた。

鉱泉分析法指針において、温泉水1キログラム中の溶存物質(ガス性のものを除く)が1,000ミリグラム以上あり、陰イオンの主成分が塩化物イオンであるものが塩化物泉と規定されている。昭和の時代から塩化物泉は「温まりの湯」あるいは「熱の湯」として親しまれ、冷え症や疲労回復を求める人々に利用されてきた。

昭和53年には泉質分類の基準である鉱泉分析法指針が、昭和57年には禁忌症・適応症の掲示基準が改訂された。平成26年7月には環境省から、掲示等の基準と鉱泉分析法指針(平成26年改訂)についての通知が出され、いまの脱衣所の掲示はこれに基づいている。環境省が監修する温泉利用の手引きは、塩化物泉について、皮膚に塩分が付着するため保温効果があると説明している。泉質の呼び名や基準が整理されても、塩分が身体にもたらす作用が掲示の対象であり続けたことに変わりはない。

塩化物泉に入ったあと、なぜこれほど温かさが長く残るのか。その仕組みは、お湯に含まれる塩分が皮膚に付着して薄い皮膜を作るという物理的な現象にある。

湯船に浸かると、水に溶け込んでいたナトリウムイオンや塩化物イオンなどの無機塩類が肌の表面に触れる。湯から上がってタオルで軽く水滴を拭き取ったあとも、極めて微小な塩分の粒子は皮膚の表面に付着したまま残る。

人間は湯から上がると、体温を下げるために汗をかき、皮膚表面の水分を空気中へ蒸発させようとする。通常は水分が気化するときに周囲から気化熱を奪うため、皮膚の温度は急速に下がっていく。

しかし肌の表面に塩分が付着していると、その塩分が水分の急激な蒸発を抑えると考えられている。汗の蒸散が緩やかになれば、体表から気化熱が奪われる量もそれだけ減る。温泉医学の解説では、身体に付着した塩類が保温効果をもたらし、出浴後の水滴の蒸発による気化熱で体温を下げにくくすると説明されている。ただし温まりやすさや温かさの持続そのものの仕組みは、まだ明確に解明されているわけではない。温かさが続く理由を、湯の温度だけに求めることはできない。

溶存物質の総量が1,000ミリグラム未満である単純温泉と比較すると、塩化物泉の持つ物理的な作用の輪郭がいっそう明瞭になる。

単純温泉は溶けている成分の濃度が低いため、肌への浸透圧の差による刺激が少なく、湯ざわりがやわらかい。成分が皮膚に膜を作りにくいため、入浴後は汗とともに水分が素直に蒸発し、湯上がりの肌はさらりとした爽快感に包まれる。刺激が少ないぶん体への負担がかかりにくく、長く逗留して湯に通う湯治に向くとされてきた。

これに対して塩化物泉は、1キログラム中に数千ミリグラムから、時には数万ミリグラムに及ぶ塩分を含んでいる。皮膚に堆積する塩分の量が圧倒的に多いため、気化熱を抑える力も強くなる。

単純温泉が成分の薄さによって体に負担をかけない穏やかな作用を持つのに対し、塩化物泉は成分の濃さと皮膚への付着によって熱を逃がさない作用をもたらす。どちらが優れているかではなく、溶存物質が1,000ミリグラムという境界線を境にして、湯が身体に対して異なる物理的作用を働かせている。

脱衣所の壁に掲げられた温泉分析書を見ると、陽イオンの欄にナトリウムイオン(Na+)、陰イオンの欄に塩化物イオン(Cl-)のミリグラム数が高い数値で並んでいる。

平成26年の環境省通知に基づく掲示規定に従い、その分析表の下には泉質別適応症として、きりきず、末梢循環障害、冷え性、うつ状態、皮膚乾燥症の文字が並ぶ。末梢の血管を広げて血行を促す作用と、塩分の皮膜による保温作用が、冷え性の改善という適応症の根拠となっている。

塩化物泉の多くは無色透明に近い澄んだ湯だが、分析書の数値が示すとおり、そこには塩分が濃く溶けている。湯口から注がれた湯は湯面を揺らしながら縁からあふれ、入浴者の皮膚へ塩分を直接届けていく。

湯上がりの温かさが続く理由は、温泉水の熱そのものが体内に残り続けているからではない。お湯に溶け込んでいたナトリウムイオンと塩化物イオンが皮膚の表面にとどまり、微細な塩の膜を作って気化熱の放出を食い止めているからだ。

分析書に記された溶存物質の重量は、単なる化学分析の記録ではなく、湯から上がったあとに肌の上で起きる現象の規模を表している。

湯船に浸かっている数分間だけでなく、脱衣所で体を拭き、服を着て、外の空気に触れるまでの時間。皮膚の表面に残された目に見えない微小な塩分の粒子が、気化熱による体温の低下を緩やかに抑え続ける。塩化物泉の温まりという特性は、湯船の中ではなく、湯を出たあとの肌の上で完成する。

ゆーたなかお

温泉天国 - Onsen Paradise 運営

旅と食と温泉好き。どこにでもいます。

SOURCES

  1. 禁忌症及び入浴又は飲用上の注意の掲示等の基準(平成26年7月)|環境省採用前の裏取りで本文を確認(観測 2026-09-19)
  2. 鉱泉分析法指針(平成26年改訂)|環境省採用前の裏取りで本文を確認(観測 2026-09-19)
  3. 掲示等の基準 新旧対照表|環境省採用前の裏取りで本文を確認(観測 2026-09-19)
  4. 温泉利用のいろは(監修 日本温泉気候物理医学会)|環境省採用前の裏取りで本文を確認(観測 2026-09-19)
  5. 温泉の医学的効果に関する解説|日本温泉科学会誌採用前の裏取りで本文を確認(観測 2026-09-19)
  6. 温泉の泉質のいろいろ|日本温泉協会採用前の裏取りで本文を確認(観測 2026-09-19)
  7. 温泉利用に当たっての禁忌症、適応症、温泉の正しい利用方法について|栃木県本文執筆時に Google Search で参照(観測 2026-09-19)