MAGAZINE / 22 · CHLORINE

浴室に漂うプールのような匂いは、塩素そのものではなく、汗や皮脂と反応してできたクロラミンのものだ。消毒は循環式かどうかを問わず原則として求められている。掲示の消毒欄が示すのは湯の優劣ではなく、その施設が置かれた条件での判断である。

掲示の読み方

脱衣所に掲げられた温泉利用状況の掲示板

浴室の引き戸を開けた瞬間に、鼻をつくプールの匂いが漂ってくることがある。温泉を訪れてあの独特の刺激臭に出くわすと、少なからず気持ちが冷める。あの匂いが立ち込めているだけで、湯が人工的にいじられ、自然のままの姿を失っているのだと受け取ってしまう。

だが、あの匂いは湯の中で起きていることのごく一面を伝えているにすぎない。源泉が持っている成分や、地中から湧き出た素性のすべてを否定しているわけではない。匂いがするかどうかという分かりやすい感覚だけで湯のあり方を判断してしまうと、湯船の奥にある給排の経路や、宿が置かれた法的な環境が見えなくなってしまう。

湯に入ったときに感じる失望の正体は、匂いそのものへの嫌悪というよりも、「温泉に来たのだから無加工の湯に出会えるはずだ」という期待との食い違いにある。しかし、目の前にある湯船は、単なる自然の湧き水ではなく、大勢の人が肌を浸す衛生空間でもある。失望から一歩退いて、あの匂いがどこから来て、何を伝えているのかをたどってみると、湯船の向こうにある管理の輪郭が見えてくる。

かつての温泉宿では、湯をどれくらいの頻度で入れ替えるか、どのように注ぐかは、それぞれの現場の裁量に委ねられていた。湯量が豊富な土地では湯船からあふれさせ続け、湯量が限られる土地では適度に足しながら使うというように、地域の条件に応じたやり方が長年続けられてきた。

しかし、高度経済成長期から昭和の終わりにかけて浴槽の大型化が進み、湯を無駄なく使うための循環ろ過装置が急速に普及した。配管やろ過器の内部に汚れがたまると、そこに細菌が定着しやすくなる。平成12(2000)年12月15日、厚生省(現・厚生労働省)は「公衆浴場における衛生等管理要領等について」(生衛発第1811号生活衛生局長通知)を大幅に改正した。レジオネラ属菌の繁殖を防ぐため、塩素系薬剤を用いた消毒を行い、浴槽水中の遊離残留塩素濃度を1リットルあたり0.4ミリグラム程度に保つことが、循環式かどうかを問わず原則として求められるようになった。

さらに平成14(2002)年、宮崎県日向市の第三セクターが運営する温泉施設「お舟出の湯」で、大規模なレジオネラ肺炎の集団感染が発生した。発症者は295名にのぼり、うち7名が亡くなる国内最大規模の事故となって、入浴施設の衛生管理は社会的な大問題として報じられた。この出来事を機に厚生労働省は指針をいっそう厳しくし、循環配管の定期的な清掃や、残留塩素濃度の測定と記録の徹底が全国の自治体で条例化されていった。

安全性を最優先とする法令の整備と、集団感染の教訓が重なった結果、湯船への塩素消毒は、現代の公衆浴場において避けて通れない管理の工程となった。かつては個々の宿の感覚に任されていた湯の清潔さは、行政基準を満たすための数値管理へと移行した。

塩素による消毒は、湯をろ過して使い回す循環式の施設だけで行われているわけではない。湧き出た源泉をそのまま湯船に注ぎ、あふれ出た湯をそのまま流す掛け流しの施設であっても、塩素系薬剤が使われることがある。

自然湧出の源泉であっても、掘削してポンプで汲み上げる動力揚湯の源泉であっても、季節や天候によって湧出量は常に増減する。湯口から注がれる量が一時的に減ったり、湯船が広くて湯が完全に入れ替わるまでに何時間もかかったりする場合、湯船の中には湯が滞留する部分ができる。そこへ一度に大勢の客が入れば、湯の中の衛生状態を保ち続けることは難しくなる。

厚生労働省の衛生等管理要領は、塩素消毒を循環式に限らず原則として求めている。掛け流しが消毒を行わずに済むのは、浴槽の容量に比べて注がれる湯の量が多く、遊離残留塩素を保つこと自体が難しい場合などに限られる。湯量が浴槽の大きさに追いつかない施設では、原則のほうがそのまま適用される。

掛け流しという言葉には、一切の手を加えず、自然のままの湯があふれ続けているという印象がつきまとう。しかし現実の施設では、安全を担保するために微量の塩素を投入しながら掛け流す選択がなされている。消毒の有無だけを取り上げて、その湯が循環であるか掛け流しであるかを即断することはできない。

浴室で感じるあのツンとした匂いの正体は、投入された塩素剤そのものの匂いではない。水中で起きた化学反応によって生じた、別の物質の匂いだ。

水に溶けた遊離残留塩素は、入浴者の体から持ち込まれる汗、皮脂、角質、尿などのアンモニア態窒素と反応する。この反応によって、モノクロラミン、ジクロラミン、トリクロラミンといった結合残留塩素(クロラミン)が生成される。プールや浴室で強く香る独特の刺激臭は、このクロラミンが空気中へ揮発したものである。

つまり、塩素を多量に入れたからといって、水が完全に清潔な状態であればあの刺激臭はそれほど強くならない。多くの人が湯に入り、持ち込まれた有機物と塩素が結びつくことで、匂いは一段と強くなる。夕方や休日の混雑した時間帯に浴室の匂いが強く感じられるのは、この化学反応が活発に進んでいるためだ。

この匂いの強弱は、湯の成分の濃さとそのまま対応するわけではない。成分が濃厚な硫黄泉であっても、無色透明な単純温泉であっても、有機物と塩素が反応すればクロラミンは立ち込める。ただし泉質がまったく無関係というわけでもない。アンモニア態窒素を多く含む湯やアルカリ性の強い湯では、遊離塩素を保つこと自体が難しくなることが知られている。いずれにしても、匂いが強いから成分が損なわれているわけではなく、匂いがしないから完全に清潔であるとも言い切れない。

平成17(2005)年に温泉法施行規則が改正され、同年5月から、入浴施設には「加水」「加温」「循環ろ過」「入浴剤・消毒剤の添加」の4項目について、その理由とともに脱衣所などに掲示することが義務付けられた。

脱衣所の壁にある温泉分析書の横には、利用状況の掲示板が掛かる。そこには「衛生管理のため塩素系薬剤を使用しています」「循環ろ過装置を使用しています」といった文言が淡々と並んでいる。この掲示が伝えるのは、その宿がどのような方針で湯を湯船まで運び、利用者に提供しているかという管理の履歴だ。

湧出量が豊富で、消毒を行わずに掛け流しを維持している施設がある。限られた源泉を多くの客に安全に使ってもらうため、循環ろ過装置と塩素の注入を併用する施設もあれば、掛け流しの湯にごくわずかな塩素を加えている施設もある。

これらは優劣の指標ではなく、それぞれの宿が引いている源泉の温度、湧出量、湯船の広さ、そして地域の条例に合わせて選んだ結果なのだ。掲示板の項目は、湯船の管理者が法令と自然条件の間でどのような判断を下したかを読み解くための手がかりになる。

浴室の扉を開けてプールの匂いがしたとき、それを単なる失望として片付けてしまうのは早い。その匂いの背後には、過去の感染症事故を経て形作られた衛生基準があり、湯船の規模や利用者の数に応じて組み立てられた給湯の経路がある。

湯船の縁から湯があふれているのか、吸込口から吸い込まれて機械室のろ過器へと向かっているのか。湯口から注がれている湯は何度で、1分間にどれだけの量が注がれているのか。脱衣所の貼り紙には、残留塩素濃度を測定した時刻と、0.4ミリグラム毎リットルという数値がどのように記録されているか。

刺激臭という感覚の入り口から、配管、ろ過器、注入ポンプ、そして法令の基準へと視線を移してみる。湯船はただ地中から湧いた水がたまっている場所ではなく、自然の湧出物と人工の管理機構がせめぎ合う現場だ。そのせめぎ合いの痕跡として塩素の匂いを捉え直すと、目の前にある湯船のありようが、これまでとは違った手触りで見えてくる。

ゆーたなかお

温泉天国 - Onsen Paradise 運営

旅と食と温泉好き。どこにでもいます。

SOURCES

  1. 公衆浴場における衛生等管理要領等について(平成12年12月15日 生衛発第1811号)|厚生労働省採用前の裏取りで本文を確認(観測 2026-09-19)
  2. 入浴施設の衛生管理の手引き|厚生労働省採用前の裏取りで本文を確認(観測 2026-09-19)
  3. 日向サンパーク温泉施設利用者に係るレジオネラ症集団発生事例|宮崎県採用前の裏取りで本文を確認(観測 2026-09-19)
  4. 温泉法施行規則の改正について|環境省採用前の裏取りで本文を確認(観測 2026-09-19)
  5. 温泉の成分等の掲示について|環境省採用前の裏取りで本文を確認(観測 2026-09-19)
  6. 入浴施設におけるレジオネラ対策|国立健康危機管理研究機構採用前の裏取りで本文を確認(観測 2026-09-19)
  7. 浴槽水・プール水中のトリクロラミン生成に関する研究|土木学会論文集採用前の裏取りで本文を確認(観測 2026-09-19)