MAGAZINE / 15 · DRINKING
飲む温泉があるって知ってた?
浴槽の湯と飲泉場の湯は外見が同じでも、飲んでよい湯とだめな湯は法的な基準で分けられている。日本の温泉は入浴中心に発展したが、飲用には成分ごとの厳格な上限や衛生管理が課されている。地下から湧き出た源泉は、分析書や許可の裏付けがあって初めて柄杓から口へと運ばれる。

温泉街の飲泉場は、どういう条件が整えば置けるのか
浴槽の湯を手ですくって飲むことは、衛生上どこでも禁じられている。ところが、その湯船から数メートルしか離れていない湯口には専用の柄杓や紙コップが置かれ、同じ源泉を飲んでよいことになっている。旅館の玄関先、温泉街の広場の一角、川沿いの遊歩道。飲泉場と呼ばれるその設備は、源泉の配管をただ引っ張ってきただけの場所ではない。
湯船の湯と飲泉場の湯は、外見上は同じ無色透明あるいは白濁した液体に見える。水道水とは違う塩気や金気、硫黄の風味を持つその湯は、どのような条件が整い、何によって飲んでよい湯とだめな湯に分けられているのだろうか。
ふと目にする飲泉場の背景には、地下深くで形成された地質由来の成分と、昭和から現代にかけて整備されてきた法律の厳密な境界線が存在している。入浴用と飲用を分ける線を引くのは、感覚ではなく具体的な数値と管理基準だ。
ベルツが伊香保を見てから、飲泉は薬水信仰を離れて制度に入った
日本における温泉の利用は長らく浴用が主であったが、飲用についても湯治場を中心に古い歴史を持っている。江戸時代の記録や各地の伝承では、胃腸病に効く薬水として湯を飲む習慣が細々と続けられてきた。かつての湯治客は、湧出口から直接湯を汲み、自らの体調に合わせて適量を口に含んでいた。
近代に入ると、明治初期の1876年に東京医学校(現在の東京大学医学部)に着任したドイツ人医師エルヴィン・フォン・ベルツが伊香保温泉などを訪れ、その泉質や効能を近代医学の視座から調査した。ベルツは日本の温泉が持つ療養効果を高く評価し、入浴のみならず飲泉による体内への成分摂取についても科学的な眼差しを向けた。この出来事が、日本における飲泉を迷信的な薬水信仰から近代的な療法へと引き上げる契機となった。
戦後の1948年(昭和23年)、温泉法が定められた。温泉を公共の浴用または飲用に供しようとする者は、都道府県知事の許可を受けなければならない、と条文に書かれた。飲むことが、個人の判断から行政の許可の対象へ移った瞬間である。
量の目安が全国に示されたのは、それから四半世紀後だった。1975年(昭和50年)7月12日、環境庁は「温泉の利用基準について」(環自企424号)を通知し、成分ごとの1日の摂取上限と、そこから導く飲用の許容量を定めた。掲示すべき禁忌症と注意事項は、2014年(平成26年)7月の環境省通知でさらに書き改められている。
飲める量は、ひ素や鉛の1日の上限をその湯の濃さで割って決まる
すべての温泉が飲用に適しているわけではなく、飲んでよい湯とだめな湯を分ける最大の分水嶺は、温泉法第15条に基づく都道府県知事(保健所設置市では市長)の飲用利用の許可にある。温泉を公共の飲用に供しようとする者は、申請書に所定の書類を添えて都道府県知事の許可を受けなければならない。
この許可を得るためには、登録分析機関による飲泉試験を実施し、溶存成分の濃度や砒素、鉛、水銀といった有害物質の有無を詳細に調べなければならない。温泉分析書に記載される成分がそのまま飲用に適するとは限らず、水道法に準じるような厳しい水質基準が課される。また、毎年の一般細菌や大腸菌群に関する定期的な水質検査をクリアし、病原微生物に汚染されていない安全性が証明され続ける必要がある。
国の基準は、飲んでよい量を一律のミリリットルで決めていない。先にあるのは成分ごとの上限で、成人ならひ素は1日に0.3ミリグラム、鉛は0.2ミリグラム、水銀は0.002ミリグラム、銅は2ミリグラム、ふっ素は1.6ミリグラムまでとされている。その湯1キログラムに何ミリグラム入っているかで割ると、その湯を1日に何ミリリットルまで飲めるかが出る。濃い湯ほど飲める量は少なくなる。遊離炭酸だけは1回につき1,000ミリグラムという別の枠があり、子どもは年齢に応じて大人の二分の一、三分の一と減らす。出てきた許容量は、飲用に使う湯栓の場所とともに掲示しなければならない。
例えば、ナトリウムイオンや塩化物イオンの濃度が高い強食塩泉では、塩分制限が必要な高血圧や腎臓病などの病態への配慮から飲用量が厳しく制限される。反対に、強酸性を示す酸性泉や、遊離硫化水素を多く含む硫黄泉などは、身体への強い刺激や粘膜への負担があるため、一般に飲用には向かないとされている。湯口の配管や受水槽の衛生管理も含め、物理的・化学的・生物学的な条件がすべて揃って初めて、その湯は飲用可能となる。
ヨーロッパは飲む湯を処方し、日本は浸かる湯を選んできた
ヨーロッパの温泉地では、古くからミネラル豊富な温泉水を体内に取り入れ、医療と結びつけた療養が行われてきた。ドイツのバーデン・バーデンやチェコのカルロヴィ・ヴァリといった温泉都市では、優美な飲泉堂(トリンクハレやコロナーダ)が街の中心に建てられ、人々が専用の磁器製カップを片手に、散策しながら温泉水を味わう光景が日常のなかに溶け込んでいる。
ヨーロッパにおいて温泉水は、日常的に摂取する水や野菜と同じように、ミネラルを直接体内に補給するための滋養として扱われてきた。医師が滞在客の症状に応じて飲む湯の種類、温度、時間、量を細かく処方し、それに基づいて計画的に飲泉を行う療養システムが確立している。
これに対して日本の温泉文化は、身体全体を湯船に沈める入浴を中心として発展してきたという決定的な違いがある。日本の火山性の温泉は温度が高く、湧出量も豊富であったため、全身を温めて血行を促す浴用が生活の基盤となった。
日本の湯治場でも胃腸病の改善を目的に飲泉が行われてきたが、温泉全体の利用形態から見れば飲泉の割合は総じて低く、医師の専任管理下で行われることもヨーロッパほど一般的ではなかった。日本の飲泉は、どちらかといえば入浴療養の補助的な手段として位置づけられてきた。この利用の重心の置きどころの違いが、街のなかに開かれた飲泉場の数や、建築物としての扱いの差を生み出している。
あつみ温泉の湯之里橋では、40度の湯が橋の真ん中から注いでいる
実際の温泉街で飲泉場に立つと、蛇口や湯口から静かに湧き出る源泉の姿を間近に見ることができる。山形のあつみ温泉を流れる温海川の湯之里橋にある飲泉場では、橋の中央に設置された湯口からおよそ四十度の無色透明な湯が注がれ、訪れる人が自由に手元の茶碗で口に含めるようになっている。
その傍らには、保健所の許可に基づく飲用上の注意事項や、水質検査の期日と結果を記した掲示板が必ず立つ。掲示板には、泉質名だけでなく、一回あたりの飲用量の目安や、飲用を避けるべき禁忌症が細かく書かれている。
浴槽に注がれる湯とは異なり、飲泉場の湯口は循環配管を通っておらず、消毒用の塩素剤も添加されていない。地下から汲み上げられたばかりの源泉が、空気に触れて間もない状態で専用の配管を通じて直接注ぎ込まれている。空気に触れた瞬間の鮮度と、厳しく管理された衛生状態が保たれているからこそ、安心してその土地の成分を舌で確かめることができる。
湯を口に含むと、その土地の成分は皮膚ではなく粘膜で受け取られる
湯船に浸かるときとは異なり、温泉を口に含む行為は、その土地の地質と地下水がめぐってきた長い旅の成果を直接身体の内側に取り入れることにほかならない。皮膚の表面で温度や肌ざわりを感じる入浴に対して、飲泉は味覚や嗅覚、さらには食道や胃の粘膜を通じて温泉の物理的・化学的性質を受け止める行為である。
分析書に並ぶミリグラム単位のイオンの数値と、温泉法第15条に基づく許可という制度の裏付けがそろって初めて、一杯の温泉水は柄杓から口へ運ばれる。飲泉場という小さな設備は、地下数百メートルから湧き出る自然の地下水脈と、現代の衛生行政が交差する結節点として温泉街の一角に置かれている。
ゆーたなかお
温泉天国 - Onsen Paradise 運営旅と食と温泉好き。どこにでもいます。
SOURCES
- 飲泉とは?効果や注意点、おすすめの飲泉できる温泉を紹介!|ニフティ温泉本文執筆時に Google Search で参照(観測 2026-09-10)
- 国内最初の「飲める温泉」…名湯・伊香保温泉に秘められた意外な歴史|誰かに話したくなる温泉雑学 | 一個人:公式WEBサイト本文執筆時に Google Search で参照(観測 2026-09-10)
- 歴史から見る温泉保養地の変遷(日本編) | 温泉保養地学講座 | 健康と温泉フォーラム本文執筆時に Google Search で参照(観測 2026-09-10)
- 平成26年7月環境省通知 禁忌症及び入浴又は飲用上の注意事項 | 理化学検査 | お役立ち情報 | 株式会社 東邦微生物病研究所本文執筆時に Google Search で参照(観測 2026-09-10)
- 温泉法に関わる基準等の改訂について - 北里環境科学センター本文執筆時に Google Search で参照(観測 2026-09-10)
- 別添.レジオネラ属菌防除のための温泉浴槽水等の衛生的管理本文執筆時に Google Search で参照(観測 2026-09-10)
- 温泉利用許可│温泉を浴用・飲用に供するために必要な手続きについて | ツナグ行政書士事務所本文執筆時に Google Search で参照(観測 2026-09-10)
- 源泉・温泉分析(鉱泉分析法指針による分析) | 水質検査 | 水質検査 | 株式会社 東邦微生物病研究所本文執筆時に Google Search で参照(観測 2026-09-10)
- 温泉成分等の掲示について / 佐賀県本文執筆時に Google Search で参照(観測 2026-09-10)
- hiroshima.lg.jp本文執筆時に Google Search で参照(観測 2026-09-10)
- あつみ温泉 湯之里橋飲泉所 | のむ温泉.com本文執筆時に Google Search で参照(観測 2026-09-10)
- 公衆浴場における衛生等管理要領等の改正について本文執筆時に Google Search で参照(観測 2026-09-10)
- env.go.jp本文執筆時に Google Search で参照(観測 2026-09-10)
- onken.odawara.kanagawa.jp本文執筆時に Google Search で参照(観測 2026-09-10)