MAGAZINE / 04 · EFFICACY
温泉の成分は、どうやって体に効くの?
脱衣所に並ぶ「適応症」は旅館の宣伝文句ではなく、制度の言葉だ。角質のバリア、温熱・浮力・水圧の物理、飲むヨーロッパと浸かる日本。成分が体に届くまでの道筋をたどる。

脱衣所の壁に並ぶ病名と記号
脱衣所で服を脱ぎ、ふと壁を見上げると、額縁に入った「温泉分析書」や「適応症・禁忌症」の一覧が掲げられている。神経痛、筋肉痛、冷え性、疲労回復――そこには、まるで薬の添付文書のように、さまざまな不調の名前が並んでいる。私たちはそれを見て、「この湯の成分が肌から体に染み込んで、効いてくれるのだろう」と漠然と考えがちだ。
だが、皮膚という器官の仕組みを少し考えてみると、ひとつの疑問が浮かぶ。人間の皮膚のいちばん外側にある角質層は、厚さがわずか0.02ミリメートル、食品用のラップフィルム2枚分ほどしかない極めて薄い膜だが、外界から異物や水分が体内に侵入するのを防ぐ強力なバリアとして働いている。もし水やそこに溶けた成分が無制限に体内へ染み込むなら、私たちは家庭の風呂に入るたびに水ぶくれを起こしてしまうはずだ。
それにもかかわらず、なぜ温泉に浸かると体が軽くなり、痛みが和らいだように感じるのだろうか。成分が直接病気を治しているのか、それとも別の仕組みが体に働いているのか。脱衣所の壁に掲げられた病名の一覧は、いったい何を根拠に書かれているのだろう。
鉱泉の分析から「療養泉」という枠組みへ
日本における温泉の効能の捉え方は、長い時間をかけて感覚的な言い伝えから制度的な基準へと整理されてきた。
江戸時代以前の湯治は、経験則の積み重ねだった。傷を負った武士が湯に浸かって傷口を休めたり、農閑期の人々が数週間にわたって温泉地に逗留し、日頃の過酷な労働で疲弊した体を立て直したりしていた。どの湯がどんな痛みに効くかは、地域ごとの言い伝えとして語り継がれていたにすぎない。
近代化の過程で、ここに科学の視点を持ち込んだ人物のひとりが、明治時代初期に東京医学校(現在の東京大学医学部)で内科学を教えたドイツ人医師、エルヴィン・フォン・ベルツだ。ベルツは1878(明治11)年に群馬県の草津温泉を訪れ、その強酸性の泉質や、号令に合わせて短時間入浴する「時間湯」という独特の入浴法を医学的に観察した。彼は温泉水そのものの化学的性質だけでなく、入浴の方法や、高地の清澄な空気、生活リズムの変化といった環境全体が生体に与える影響に着目した。
第二次世界大戦後の1948(昭和23)年、温泉の保護と利用の適正化を目的に「温泉法」が制定された。この法律において、温泉は「地中から湧出する温水、鉱水および水蒸気その他のガスで、源泉の採取時の温度が摂氏25度以上であるか、あるいは指定された19種類の物質のうちいずれかひとつを規定量以上含むもの」と明確に定義された。
ここで重要なのは、法律上の「温泉」と、健康づくりに役立つとされる「療養泉」が明確に区別された点だ。温泉のなかでも、特に治療や保養の目的に供し得るものを環境省の「鉱泉分析法指針」によって「療養泉」と定義し、泉質名を名乗るための基準や、掲示板に書く「適応症」の基準が国によって整備されていった。
その後も医学的知見の蓄積に伴い、制度の見直しが進められた。大きな転換点のひとつが2014(平成26)年の改訂だ。この改訂では、かつて一般的禁忌症(温泉に入浴してはならない状態)に挙げられていた「妊娠中(とくに初期と末期)」が、医学的な根拠が乏しいとして削除された。また、泉質の分類から含アルミニウム泉や含銅泉が整理され、新たに含まれるヨウ素の量に応じた「含よう素泉」が追加されるなど、現代の科学に基づいた見直しが行われている。
私たちが脱衣所で見かける掲示は、温泉旅館が独自にうたう宣伝文句ではなく、こうした医学と行政の歴史的な積み重ねによって定められた公式な基準だ。
温熱と水圧が整え、成分が表面を覆う
では、温泉は実際に私たちの体にどのように働いているのか。医学や生理学の研究では、温泉の作用を「物理的作用」「化学的作用」「総合的生体調整作用(転地効果)」の3つの組み合わせとして捉えている。
第1の土台となるのが、水そのものが持つ「物理的作用」だ。ここには温熱、静水圧、浮力の3つが含まれる。
温熱作用は、血管を拡張させて全身の血流を促す。血流が良くなることで、筋肉にたまった疲労物質や痛みの原因物質が押し流され、筋肉のこわばりがほぐれていく。
静水圧作用とは、水の重みによって体にかかる圧力のことだ。私たちが浴槽に肩まで浸かると、全身に数百キログラムからおよそ1トンに相当する水圧がかかる。この圧力によって、下半身に滞りがちだった血液が心臓へと押し戻されるポンプのような働きが生まれ、むくみや冷えが和らぐ。
さらに浮力作用によって、水中に首まで浸かった人間の体重は見かけ上、空気中の約10分の1にまで軽くなる。体重60キログラムの人であれば、約6キログラムの負荷しか骨や関節にかからない計算になる。重力から解放されることで関節の緊張が抜け、脳が休息状態へと導かれる。
これらの物理的作用は、水道水を沸かした家庭の風呂でも基本的に同じように働く。つまり、温泉に入って感じる「だるさが抜ける」「痛みが軽くなる」という感覚の大部分は、お湯に深く浸かること自体の物理的な力によって生み出されている。
そのうえに乗るのが、第2の「化学的作用」だ。皮膚の角質層は強力なバリアだが、脂に溶けやすい物質や二酸化炭素、硫化水素のようなごく小さなガス状分子などは、ごくわずかに角質層を通過して毛細血管に働きかけることが知られている。
しかし、温泉成分の主な働きは体内への吸収だけではない。たとえば塩化物泉の主成分である食塩(塩化ナトリウム)は、入浴中に皮膚の表面に付着し、角質層の表面に薄い膜を作る。この膜が汗の蒸発を防ぐため、湯上がりの体温が逃げにくく、保温効果が長く続く。炭酸水素塩泉やアルカリ性の温泉は、皮膚表面の古い角質や皮脂を適度に軟化させて落としやすくする。
第3の「総合的生体調整作用」は、日常の環境から離れることによって生じる。山あいの澄んだ空気、木々の揺れる音、日常の仕事や家事から解放された時間が、自律神経やホルモンのバランスを整えていく。
環境省の指針も、温泉療養の効用を、含有成分などの化学的因子・温熱などの物理的因子・温泉地の地勢や気候・生活リズムの変化が重なり合った総合作用への生体反応として説明している。成分単体が特効薬のように病気を退治するのではなく、温熱と環境の変化という土台の上に、泉質ごとの個性が重なり合って体に作用しているのだ。
飲むヨーロッパと、浸かる日本のあいだで
温泉が体に与える影響の捉え方は、文化圏によっても大きく異なっている。
ヨーロッパにおける温泉療法の歴史は、主に「飲泉」と「医師の管理」を中心に発展してきた。チェコのカルロヴィ・ヴァリやイタリアのモンテカティーニ・テルメといった伝統的な温泉都市では、人々は湯船に浸かることよりも、専用の陶器のカップを手に街の回廊(コロナーダ)を歩き、決められた源泉の湯を飲むことを日課としてきた。
ヨーロッパの温泉地では、訪れた人はまず専門の医師による診察を受ける。医師は患者の体調や血液検査の結果に合わせて、どの源泉を、いつ、どれだけの量、どれくらいの速さで飲むかまで指定する厳密な処方を出す。温泉水に含まれる鉱物成分を直接消化器から体内に取り込み、内臓疾患や代謝異常を改善しようとするアプローチだ。そこでの温泉地は、開放型の医療機関として機能してきた。
一方、日本の温泉文化は、圧倒的に「全身を浸かること」に重きを置いてきた。火山性の高温で豊富な湧出量に恵まれた日本では、わざわざ湯を飲まずとも、大きな浴槽にたっぷりと体を沈めることができたからだ。
日本では、医師の厳密な管理下で薬のように温泉を消費するのではなく、共同浴場や宿の湯船に肩まで浸かり、温熱と水圧による循環改善を全身で受け止めるスタイルが定着した。草津温泉の時間湯のように、入浴の作法そのものを集団で規律化した例はあるものの、基本的には生活の延長線上にある休養や保養として温泉が親しまれてきた。
どちらの文化も「温泉成分と生体の関わり」を追求してきた点では共通している。しかし、ヨーロッパが「成分を体内に取り込む化学の道」を深く掘り下げたのに対し、日本は「温かい湯に全身を包まれる物理の力」を生活の中で洗練させてきたと言える。
掲示板の「一般的」と「泉質別」を読み解く
温泉施設の脱衣所に戻って掲示板を改めて見てみると、適応症の欄が2段に分かれていることに気付く。
ひとつは「一般的適応症」、もうひとつは「泉質別適応症」だ。この2つの区分を知っておくだけで、掲示板から得られる情報はずいぶんと立体的になる。
一般的適応症とは、泉質が単純温泉であれ硫黄泉であれ、療養泉の基準を満たす温泉すべてに共通して記載される項目だ。具体的には、筋肉や関節の慢性的な痛み、運動麻痺による筋肉のこわばり、冷え性、胃腸機能の低下、軽い高血圧、疲労回復、ストレスによる睡眠障害などが並ぶ。
これらの項目をよく眺めてみると、その多くが「血行の促進」や「自律神経のリラックス」によって改善が期待できる症状であることに思い当たる。つまり一般的適応症は、特定の化学成分のおかげというよりは、温かいお湯に浸かることによる物理的作用(温熱・浮力・水圧)と、環境の変化によってもたらされる効用を整理したものと読める。
これに対して、泉質別適応症は、その温泉に含まれる特定の成分や性質によって追加される項目だ。たとえば塩化物泉なら、塩分の皮膜がもたらす保温効果から「きりきず、末梢循環障害、冷え性、皮膚乾燥症」が並ぶ。角質を柔らかくする炭酸水素塩泉にも「きりきず、末梢循環障害、冷え性」が記され、炭酸ガスが血管を広げる二酸化炭素泉では、そこに「自律神経不安定症」が加わる。同じ「きりきず」でも、根拠になっている性質は泉質ごとに違う。
そして、適応症と同じかそれ以上に大切なのが、隣に書かれている「禁忌症」の欄だ。熱がある急性疾患のときや、重い心臓病、極度の貧血などの状態では、温泉の血流促進作用や水圧が体に強い負担をかけてしまうため、入浴を避けるべきだと警告されている。
脱衣所の掲示は、万病を治す魔法のリストではない。温熱と休息が体にどう働き、どの泉質がどんな肌や循環の状態に適しているのか、あるいは負担になるのかを伝える、極めて実務的な利用の手引きなのだ。
成分表の向こう側にある湯の条件
私たちが旅先で温泉に浸かるとき、肌に触れる湯の感触や漂う匂いに意識が向く。硫黄の香りがすれば強い効能があるように感じられ、無色透明のさらりとした湯だと少し物足りなく思えることもあるかもしれない。
しかし、体の中で起きている変化を丁寧にたどってみれば、無色透明の単純温泉であっても、肩まで浸かった瞬間に体には確実に水圧がかかり、血管が広がり、体重の9割が浮力によって支えられている。家庭のシャワーだけでは得られないこの物理的な負荷と解放の落差こそが、私たちが温泉から受け取る変化の大部分を形づくっている。
温泉の効能とは、奇跡のような成分が体を外側から塗り替えることではない。温かい水に体を預け、日常の時間の流れから少し身を引き離すことで、自分自身の体が本来持っている調整の働きを呼び覚ますことにある。
次に脱衣所で分析書や適応症の額縁を見かけたとき、そこに並ぶ文字は、湯と体が交わす約束事の控えとして読める。水深数十センチの湯船に体を沈めれば、水圧と熱が静かに血管を押し広げていく。その感覚は、仕組みを知る前よりいくらか鮮明に伝わってくるはずだ。
SOURCES
- 温泉法に関わる基準等の改訂について - 北里環境科学センター本文執筆時に Google Search で参照(観測 2026-09-01)
- 温泉の定義 [温泉の保護と利用]本文執筆時に Google Search で参照(観測 2026-09-01)
- 平成26年7月環境省通知「禁忌症及び入浴又は飲用上の注意事項」について(医学的解説) | 水質検査 | お役立ち情報 | 株式会社 東邦微生物病研究所本文執筆時に Google Search で参照(観測 2026-09-01)
- 温泉施設に掲示する療養泉の種類、禁忌症および注意事項一部改訂|別府温泉地球博物館 Beppu Onsen Geo-Museum本文執筆時に Google Search で参照(観測 2026-09-01)
- 温泉や入浴の健康への活用法 … 松元 秀次 | 日本化粧品工業会本文執筆時に Google Search で参照(観測 2026-09-01)
- 温泉の医学的効果とその科学的根拠とは!? | 日本温泉協会本文執筆時に Google Search で参照(観測 2026-09-01)
- 入浴によって得られる作用|日本浴用剤工業会 - Japan Bath additive Industry Association -本文執筆時に Google Search で参照(観測 2026-09-01)
- プリズム/温泉の効能本文執筆時に Google Search で参照(観測 2026-09-01)
- 適応症と禁忌症 | 日本温泉協会本文執筆時に Google Search で参照(観測 2026-09-01)
- 温泉の利用について|温泉の利用|東京都保健医療局本文執筆時に Google Search で参照(観測 2026-09-01)