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温泉分析書は湯のプロフィール

脱衣所の額縁は専門家向けの成分表ではない。泉温・pH・溶存物質総量・泉質名の四行だけで、その湯が熱いか、肌当たりはどうか、濃いか薄いかの輪郭が読める。誰が現地で測り、10年ごとに何を更新しているのか。

掲示の読み方

木造の湯屋に掲げられた分析書と温度計、湯、析出物

額縁の中の数字を、なぜ誰も読まないのか

旅館や公衆浴場の脱衣所に入ると、洗面台の脇やロッカーの上の壁に、賞状のような額縁が掲げられているのを見たことはないだろうか。そこには「温泉分析書」という表題のもと、ナトリウム、カルシウム、炭酸水素イオンといった化学名と、小数点以下の細かい数字が表にぎっしりと並んでいる。

私たちは日常のなかで、服を脱ぎながらその額縁をぼんやりと眺める。だが、大半の人は数秒で視線を外し、そのまま浴室の扉を開けてしまう。書かれている内容が理科の教科書のように難解で、専門家向けの書類だと受け取られているからだ。

しかし、考えてみると不思議な点がある。もしあれが専門家だけのための水質報告書なら、わざわざ入浴客が服を脱ぐ場所に、法律で義務付けてまで貼り出す必要があるだろうか。裏方の機械室や事務所のファイルに保管しておけば事足りるはずだ。

あの一枚は、決して専門家同士のやり取りのために掲げられているのではない。誰が、どのような基準で測定し、入浴客へ何を伝えようとしているのか。難解に見える数字の羅列には、実はごくわずかな要所さえ知っていれば、誰でもその湯の性格を一瞬で把握できる仕組みが組み込まれている。

誰が現場へ行き、どうやって確定させているのか

脱衣所に掲げられている温泉分析書は、施設が独自に作成したものではない。温泉法に基づき、都道府県知事の登録を受けた「登録分析機関」と呼ばれる専門の検査機関が発行した公的な証明書だ。

日本の温泉に関する法制度は、1948年(昭和23年)に制定された温泉法と、1951年(昭和26年)に当時の厚生省が定めた「鉱泉分析法指針」によって骨格が作られた。明治期にドイツから導入された分析手法を受け継ぎながら、日本の多様な湧水や地下水を科学的に分類するために整えられた体系だ。

温泉分析の最大の特徴は、温泉水を容器に詰めて検査機関へ郵送するだけでは正式な分析書が完成しない点にある。登録分析機関の検査員が必ず現地の源泉湧出地へ足を運び、直接測らなければならない項目が定められている。

検査員は現地で、湧出口における泉温を測定し、水素イオン濃度(pH)を測り、毎分どれだけの湯が湧き出ているかという湧出量を確認する。さらに、湯の色や濁り、匂い、味といった「知覚的試験」をその場で行う。地下から地上へ出たばかりの温泉水は、外気に触れると成分が酸化したりガスが抜けたりして、性質が刻一刻と変化してしまうからだ。

現地で採取された温泉水は厳封されて研究室に持ち帰られ、イオンクロマトグラフや分光光度計などの分析機器を用いて、陽イオンや陰イオン、溶存ガス成分などがミリグラム単位で細かく測定される。こうして得られた膨大な測定結果を一枚に集約したものが温泉分析書である。

かつて、この分析書は一度取得すれば泉源が枯渇するまで半永久的に有効とされていた。しかし、地下の熱水や地下水脈の状況は年月の経過とともに変化する。湯の温度が下がったり、含まれる成分のバランスが変わったりすることは珍しくない。

そこで2007年(平成19年)10月に温泉法が改正され、温泉を公共の浴用または飲用に供する事業者に対し、10年ごとの定期的な再分析と掲示内容の更新が義務付けられた。脱衣所の分析書の下部にある「分析終了年月日」を見れば、その湯がいつ測定されたものかが分かる。10年という歳月を刻みながら、定期的に地下の状態を確かめ直す制度になっているのだ。

最初の四行で輪郭をつかむ

脱衣所で分析書を前にしたとき、表にびっしりと並ぶ数十種類のイオンの数値を一つひとつ追う必要はない。私たちが湯の輪郭を掴むために確認すべき項目は、基本的に「泉温」「pH」「溶存物質総量」「泉質名」の4点に集約される。この4つの数値を見るだけで、その湯がどんな性格を持っているのかが立体的に浮かび上がる。

第1の鍵は「泉温」だ。これは地表に湧き出した時点での温度を指す。鉱泉分析法指針では、25度未満を「冷鉱泉」、25度以上34度未満を「低温泉」、34度以上42度未満を「温泉」、42度以上を「高温泉」と4区分している。

家庭の風呂はおおむね40度から42度前後に設定されることが多いが、源泉が25度未満の冷鉱泉であれば、浴槽に注ぐためには沸かす工程が必要になる。逆に80度を超えるような高温泉であれば、そのままでは熱くて入れないため、冷ます工夫が施されているはずだと予想がつく。

第2の鍵は「pH(水素イオン濃度)」である。水溶液中の水素イオンの量を示す指標で、鉱泉分析法指針ではpH3.0未満を「酸性」、3.0以上6.0未満を「弱酸性」、6.0以上7.5未満を「中性」、7.5以上8.5未満を「弱アルカリ性」、8.5以上を「アルカリ性」と定めている。

身近な例で言えば、レモン汁やお酢がpH2〜3前後の酸性、石鹸水がpH9〜10前後のアルカリ性だ。酸性の湯は殺菌力が高く肌にピリッとした刺激を与える傾向があり、アルカリ性の湯は肌表面の皮脂を少しずつ乳化させるため、入ったときに肌が滑らかに感じられやすい。中性付近の湯は肌への刺激が穏やかで、長湯をしても負担感が少ない。

第3の鍵は「溶存物質総量(ガス性のものを除く)」だ。温泉水1キログラム(約1リットル)の中に、水分以外の固形成分が何ミリグラム溶け込んでいるかを示す数値だ。

この溶存物質総量は、湯の「濃さ」を判断する決定的な基準になる。環境省の基準では、溶存物質総量が1,000mg/kg(1g/kg)以上あるかどうかが、成分による泉質名を名乗るための基本的な分岐点となっている。

1,000mg/kg未満で泉温が25度以上のものは「単純温泉」と呼ばれる。名前に「単純」と付くため成分が乏しいと誤解されがちだが、これは特定の成分が突出して多すぎない、体にやさしい湯という意味だ。

さらに、この溶存物質総量は人間の体液との濃度差を示す「浸透圧」の基準にも使われる。8,000mg/kg未満は「低張性」、8,000mg/kg以上10,000mg/kg未満は「等張性」、10,000mg/kg以上は「高張性」と分類される。

人間の体液(生理食塩水など)は約9,000mg/kgに相当する。日本の温泉の大半は8,000mg/kg未満の低張性で、湯の水分が肌に吸い込まれやすく、肌がふやけやすい特徴がある。

一方、海水と同等以上に成分が濃い10,000mg/kg以上の高張性の湯では、体内の水分が外へ引っ張られ、成分が体に浸透しやすいため、短時間の入浴でもずっしりとした入り応えを感じる。1,000mg/kgという数値は、家庭の浴槽(約200リットル)に換算すると、コップ1杯分(約200グラム)の成分が溶け込んでいる状態に相当する。

第4の鍵が、これらを総合して名付けられる「泉質名」だ。鉱泉分析法指針に基づき、溶存物質が1,000mg/kg以上ある塩類泉では、含まれる陽イオンと陰イオンのうち、それぞれ成分の割合(ミリ当量比)が20%以上を占める物質を順番に並べて命名される。

たとえば「ナトリウム-塩化物泉」とあれば、食塩の成分であるナトリウムイオンと塩化物イオンが主役の湯であり、よく温まる保温効果が期待できる。そこに「カルシウム」や「硫酸塩」が混ざれば「ナトリウム・カルシウム-塩化物・硫酸塩泉」のように名前が長くなり、それぞれの成分の特徴が合流していく。

「泉温で温度管理の背景を知り、pHで肌当たりを察し、溶存物質総量で濃さを測り、泉質名で主成分を特定する」。この4項目を見るだけで、湯の全体像はほぼ掴むことができる。

水道水の基準と温泉分析書が目指すものの違い

分析書の構造をより明確に理解するために、私たちが日常的に接している他の水質規格と比較してみると、その設計思想の違いが浮き彫りになる。

もっとも身近な規格である「水道水質基準」は、水道法に基づいて51項目の基準が定められている。水道水の検査で最も重視されるのは、大腸菌、重金属、残留農薬、化学物質などの混入を防ぎ、安全に飲用できる「上限値」を管理することだ。つまり、水道水質基準は「余計な不純物が含まれていないこと(純粋さ)」を証明するための引き算の規格だ。

これに対して、温泉法と鉱泉分析法指針が定める温泉分析書は、全く逆の足し算の思想で作られている。

日本の温泉法第2条では、地中から湧出する温水や鉱水のうち、「25度以上であること」または「特定の19物質のうちいずれか1つ以上が規定量以上含まれていること」を満たせば温泉と定義される。つまり、冷たい地下水であっても、鉄分や硫黄、炭酸水素ナトリウムなどが基準値を超えていれば温泉として認められる。

分析書の目的は、水の中に「何がどれだけ溶け込んでいるかという個性」を特定し、公に記録することにある。

海外の温泉文化と比較しても、日本の分析制度には独自の特徴がある。たとえばドイツをはじめとするヨーロッパの温泉地(クアオルト)では、温泉水は厳格な国家認定を受けた「医薬品」に近い扱いを受けることが多い。治療目的の飲泉や水治療に耐えうる特定の医学的効能と安定性が求められ、認定基準を満たさない水は療養温泉として認められない。

一方、日本の温泉制度は、火山の多い日本列島の地質学的多様性を反映し、高温の湯から冷たい鉱水まで、極めて広範な地下水を「温泉」という枠組みの中に包摂している。

日本の温泉分析書は、特定の基準で合否を判定して湯を排除するための試験紙ではない。その土地の地下深くで何が起きているのか、地熱の高さや岩石から溶け出したミネラルの配合を、ありのままに記述するための戸籍謄本のような役割を果たしているのだ。

額縁の記録と、目の前の湯口を結ぶ

脱衣所で分析書の4つの数字を確認したら、浴室に入ったときに読者自身の目と肌で確かめられるポイントがいくつかある。分析書に書かれているのは「源泉湧出地での生まれたてのデータ」であり、浴槽の湯はその源泉が運ばれてきた結果だからだ。

まず、湯口から注がれる湯の温度と勢いを見る。分析書の泉温が50度以上の高温泉なのに浴槽が適温(41度前後)に保たれている場合、施設がどのように熱を逃がしているのかを観察してみると面白い。湯口からの投入量を絞って自然冷却させているのか、熱交換器を使っているのか、あるいは加水しているのか。脱衣所にあるもう一枚の掲示である「温泉利用状況の掲示」と照らし合わせると、その背景がよく分かる。

次に、湯の色や肌触りを確かめてみる。分析書のpHが8.5以上のアルカリ性であれば、湯の中で腕を撫でたときに、石鹸を使ったあとのようなつるつる・すべすべとした感触を意識しやすい。逆にpHが2前後の強酸性であれば、肌がキュッと引き締まるような感触や、湯が目にしみる感覚があるはずだ。

さらに、浴槽の縁や湯口の周りに目を向けてみる。溶存物質総量が数千mg/kgを超える濃厚な塩類泉や炭酸水素塩泉では、浴槽の縁に成分が結晶化して白や茶色の付着物(スケール)が波紋のように固まっていることがある。逆に、溶存物質総量が数百mg/kg前後の単純温泉では、結晶の付着はほとんどなく、無色透明で清らかな湯が静かに溢れている。

分析書の数字を頭の片隅に置いて湯船に浸かると、単に「気持ちいい」という感覚だけでなく、湯口から流れる湯の匂いや肌触りのひとつひとつが、地下から届いた成分の現れとして実感できるようになる。

地下の瞬間を切り取った一枚の記録

脱衣所の壁にある温泉分析書は、決して読み飛ばされるためにある無機質な数字の表ではない。それは、検査員が現地へ赴き、湧き出た瞬間の湯の息づかいを化学の言葉で定着させた、確かな記録だ。

数値が高いからといって優れた温泉というわけではない。溶存物質が少なく体に負担をかけない単純温泉には、毎日何度でも入れる心地よさがあるし、成分が凝縮された高張性の塩化物泉には、体を芯から温め切る力強さがある。

それぞれの数値は優劣を競うための点数ではなく、その土地が持つ個性の現れに過ぎない。

次に温泉を訪れたときは、脱衣所で服を脱ぎながら、額縁の四つの項目 — 「泉温」「pH」「溶存物質総量」「泉質名」 — に数秒だけ目を留めてみてはどうだろうか。

その数行の数字を眺めてから湯船に身を沈めるとき、目の前の湯が通ってきた地下数百メートルの岩盤と、10年ごとに更新され続ける人の手の管理が、静かにつながって見えてくるはずだ。

SOURCES

  1. 温泉分析書の見方 | 日本温泉協会本文執筆時に Google Search で参照(観測 2026-09-02)
  2. 公益財団法人 中央温泉研究所 - 温泉分析本文執筆時に Google Search で参照(観測 2026-09-02)
  3. 温泉成分の登録分析機関|静岡県公式ホームページ本文執筆時に Google Search で参照(観測 2026-09-02)
  4. 温泉成分等の掲示について / 佐賀県本文執筆時に Google Search で参照(観測 2026-09-02)
  5. 温泉の定義 [温泉の保護と利用]本文執筆時に Google Search で参照(観測 2026-09-02)
  6. 温泉に関する分析 - 北里環境科学センター本文執筆時に Google Search で参照(観測 2026-09-02)
  7. 神奈川県温泉地学研究所 - I−4−(2) 泉質の判定本文執筆時に Google Search で参照(観測 2026-09-02)
  8. 地下水・温泉-温泉分析依頼 | 神奈川県温泉地学研究所本文執筆時に Google Search で参照(観測 2026-09-02)
  9. 平成19年10月20日施行の温泉法の改正について | 石川県本文執筆時に Google Search で参照(観測 2026-09-02)
  10. tokyo.lg.jp本文執筆時に Google Search で参照(観測 2026-09-02)
  11. 温泉成分は10年ごとの定期的な分析が必要です | 日本温泉協会本文執筆時に Google Search で参照(観測 2026-09-02)
  12. 温泉成分等の掲示について | 美の国あきたネット本文執筆時に Google Search で参照(観測 2026-09-02)