MAGAZINE / 08 · PROFILE

温泉の脱衣所に掲げられた分析書には、地下の地質と法制度に基づく測定の記録が記されている。明治から続く試験の手法や十年ごとの再分析を経て、湯の組成と現在の管理工程が一本の配管で結ばれている。

掲示の読み方

木造の湯屋に掲げられた分析書と温度計、湯、析出物

温泉の脱衣所の壁に、ガラス額やアクリル板に収められた一枚の紙が掛かっている。上段には採水地や源泉名が並び、中段にはミリグラム単位のイオンの数値が表になり、下段には見慣れない機関の印鑑が押されている。温泉分析書と呼ばれるその書類を前にして、多くの人は効能の欄や「単純温泉」「硫黄泉」といった名称のあたりを眺め、そのまま服を脱いで湯船へと向かう。

並んでいる数字は、どれも日常では見かけないものばかりだ。陽イオンの欄に書かれたナトリウムやカルシウムのミリグラム数、陰イオンの欄にある塩素や硫酸イオンのミリバル比率、そして末尾に記された蒸発残留物や水素イオン濃度。記号の並びに見えるこの書類は、環境省が定めた規則に基づいて、登録分析機関の技術者が現地で湯を採取し、試験室で精密に測定した公的な記録だ。

地質や水の成分に詳しくない者にとって、この紙面は暗号の羅列のように映る。しかし、どこを起点にして眺めれば、そこに記された膨大なデータから湯の本来の姿を読み取ることができるのだろうか。

日本で温泉の成分を公的な規格によって測定しようとする歩みは、明治初期の近代化政策に端を発している。明治九年(一八七六年)、内務省衛生局は「鉱泉試験表表式」を定め、各地の温泉地から湧き出る水の成分調査に乗り出した。西洋から導入された近代化学の分析手法を用い、全国の温泉を同じ基準の土俵に載せて把握しようとしたのが、今日の分析書の原型である。

終戦後の昭和二十三年(一九四八年)には、現行の根幹となる温泉法が公布された。当初は日本薬学会が定めた協定鉱泉検査法などが現場で使われていたが、昭和二十六年(一九五一年)に「温泉分析法指針」が制定され、その翌年には旧厚生省がこれを「鉱泉分析法指針」として作成し直し、国として統一的な試験方法と基準を確立した。昭和三十二年(一九五七年)に一度改訂を経たのち、昭和五十三年(一九七八年)には環境庁のもとで二十年ぶりの改訂が行われ、泉質の分類方法や記載の様式が一段と整えられていく。

平成に入ると、制度の信頼性を高めるための見直しがさらに進んだ。平成十四年(二〇〇二年)には分析を行う組織が環境大臣や都道府県知事の登録制へと移行し、民間や自治体の分析機関に対する技術基準が厳格化された。

大きな転換点となったのは、平成十九年(二〇〇七年)の温泉法改正だ。それまでは一度分析書を作成すれば数十年間にわたってそのまま掲示し続けることができたが、この法改正によって「十年ごとの定期的な再分析」が義務付けられた。地下の環境変化や湯脈の推移によって成分が変わる実態を踏まえ、十年ごとに今の湯の姿を更新して記録する制度的枠組みが完成したのだ。

分析書の構成を理解するとき、すべての数値を細かく計算する必要はない。最初に見るべき場所は、書類の中ほどにある「溶存物質(ガス性のものを除く)」の総量と、陰陽それぞれの主たるイオンだ。

水一キログラムあたりの溶存物質総量が千ミリグラムを超えると、その湯は塩類泉として扱われ、含まれる成分の多寡によって固有の泉質名が与えられる。総量が千ミリグラムに満たない場合でも、泉温が二十五度以上あれば「単純温泉」となり、特定の基準値を超える成分があれば個別の療養泉として分類される。たとえば、陽イオンの筆頭にナトリウムがあり、陰イオンの筆頭に炭酸水素イオンがあれば「ナトリウム―炭酸水素塩泉」と名付けられる。この主役となるイオンの組み合わせを見るだけで、湯の肌ざわりや湯上がりの肌の感触の基礎が把握できる。

次に目を向けたいのが、液性を示す水素イオン濃度(pH値)と泉温である。pH二前後の強い酸性泉であれば肌にピリピリとした刺激があり、pH八・五以上のアルカリ性単純温泉であれば皮脂を洗い流すような滑らかな感触を伴いやすい。

さらに、掘削自噴なのか動力揚湯(ポンプによる汲み上げ)なのかという湧出形態と、毎分何リットル湧いているかという湧出量の数値を見れば、地中から地上へと運ばれる湯の物理的な勢いが分かる。地下の岩盤を数十年、数百年と巡ってきた天水が、途中でどのような鉱物と触れ合い、熱を得て湧き出したのか。その地質学的な旅路の終着点が、分析書の数値として記録されている。

海外の温泉文化と比較したとき、日本の分析書は行政的な厳密さと化学的な正確さを併せ持つ独特の形式を備えている。ヨーロッパの温泉保養地、たとえばドイツのクアオルトなどでは、温泉を医療や気候療法の手段として捉える伝統が長く、医師の処方や滞在治療の文脈が優先されてきた。成分の測定も行われるが、日本の温泉法のように全国津々浦々の宿や公衆浴場に一律の掲示を義務付ける仕組みとは背景が異なる。

日本国内の表記方法も、時代とともに大きく姿を変えてきた。昭和五十三年の指針改訂以前は、「食塩泉」「正苦味泉」「重曹泉」「芒硝泉」といった生薬や鉱物の和名に基づいた旧泉質名が公的な分類として使われていた。古い温泉街の案内板や昔の湯治記録に今も残るこれらの名称は、味や匂いといった人間の感覚に直結した呼び名であった。

近代化学の進展と国際的な命名規約への準拠に伴い、現在の分析書では「ナトリウム―塩化物泉」「マグネシウム―硫酸塩泉」のように、含まれる化学種を陽イオン・陰イオンの順序で正確に表記する体系へと改められた。感覚的な呼び名を排し、化学成分の客観的な事実のみを記載する形式への移行は、日本の温泉行政が自然現象を客観的なデータとして捉え直してきた道筋を示している。

分析書が示す数値は、あくまで地表の湧出口や分湯槽で採取された「手つかずの源泉」のデータだ。利用者が実際に体を沈める湯船の湯は、その源泉をそのまま注いでいる場合もあれば、入浴に適した状態に整えるために人の手を加えている場合もある。

この源泉と湯船の間のへだたりを埋めるために定められたのが、平成十七年(二〇〇五年)の温泉法施行規則改正による「利用形態の掲示義務」だ。事業者は、分析書の近くに「加水」「加温」「循環ろ過」「消毒処理(入浴剤の使用を含む)」の四項目について、その有無と理由を明確に掲示しなければならなくなった。

たとえば源泉温度が九十度を超える熱湯であれば、適温まで下げるために加水を行うか、熱交換器を通して冷ます必要がある。湧出量が限られた場所で衛生基準を満たすためには循環ろ過装置と塩素消毒が選ばれ、二十五度前後の冷鉱泉であれば加温設備を使って湯の温度を上げる。分析書の数値が地下の自然環境を写す記録であるならば、四項目の掲示はそれを日常の湯船へと橋渡しする設備と管理の記録だ。

脱衣所に掛かる温泉分析書は、自然が長い時間をかけて地下で調合した水の状態と、近代以降の社会が安全と公正のために整えてきた法制度とが、ちょうど交わる場所に置かれている。十年ごとに現地へ赴いて採水管を差し込む分析技術者の手作業、登録機関の試験室で滴定や機器分析を行う手順、そして湯守が湯口の温度計を見ながらバルブを微調整する日々の管理。そうした多くの工程が重なって、あの一枚の紙の数値が成立している。

脱衣所で服を脱ぐ前に、掲示板の中ほどにある「分析終了年月日」と「溶存物質総量」、そして浴槽脇の給湯口に目を向ける。そこには、地下数百メートルから汲み上げられた水の組成と、今目の前にある湯船の温度とが、確かに一本の配管で結ばれている事実が記されている。

ゆーたなかお

温泉天国 - Onsen Paradise 運営

旅と食と温泉好き。どこにでもいます。

SOURCES

  1. 温泉分析書 - Wikipedia本文執筆時に Google Search で参照(観測 2026-09-10)
  2. 温泉分析書の読み方:まず見る4項目と数字の罠本文執筆時に Google Search で参照(観測 2026-09-10)
  3. pref.aichi.jp本文執筆時に Google Search で参照(観測 2026-09-10)
  4. 鉱泉分析法指針 - Wikipedia本文執筆時に Google Search で参照(観測 2026-09-10)
  5. city.morioka.iwate.jp本文執筆時に Google Search で参照(観測 2026-09-10)
  6. pref.aichi.jp本文執筆時に Google Search で参照(観測 2026-09-10)
  7. onken.odawara.kanagawa.jp本文執筆時に Google Search で参照(観測 2026-09-10)
  8. 鉱泉分析法指針と鉱泉の分類本文執筆時に Google Search で参照(観測 2026-09-10)
  9. 温泉分析書の見方 | 日本温泉協会本文執筆時に Google Search で参照(観測 2026-09-10)
  10. 温泉事業者による表示の在り方について(案)本文執筆時に Google Search で参照(観測 2026-09-10)
  11. III−2−(1). 温泉分析書 | 地下水・温泉-温泉を知ろう | 神奈川県温泉地学研究所本文執筆時に Google Search で参照(観測 2026-09-10)
  12. 温泉法改正本文執筆時に Google Search で参照(観測 2026-09-10)
  13. j-hss.org本文執筆時に Google Search で参照(観測 2026-09-10)
  14. 鉱泉分析法指針の変遷|神奈川県温泉地学研究所報告 第28巻採用前の裏取りで本文を確認(観測 2026-09-19)