MAGAZINE / 03 · HISTORY

温泉の歴史

舒明天皇が有馬に留まった八十六日間から、家康が運ばせた熱海の樽湯、鉄道が縮めた湯治の日数、いまの日帰り入浴まで。千四百年、人はどう湯にたどり着いてきたか。

文化・歴史

年月を重ねた木造の湯屋と石造りの温泉

日本書紀に記された八十六日間の滞在

西暦631年、秋の初めのことだ。第34代舒明天皇は、従者を連れて摂津国の有馬へと向かった。『日本書紀』の記録によると、9月19日に現地へ入り、都へ戻ったのは12月13日だったという。滞在日数は86日間に及ぶ。ほぼ三か月、天皇は山あいの湯のそばに宮を建てて暮らしていたことになる。

温泉旅行といえば江戸時代の庶民の娯楽から始まった、というような漠然とした印象を持ってはいないだろうか。あるいは、家の風呂や銭湯と同じように、旅先でふらりと湯船に浸かって一泊する気軽な行楽を思い浮かべるかもしれない。だが、文字に残る最初の温泉利用は、国家の頂点に立つ者が数か月単位で腰を据える大事業だった。

なぜ舒明天皇は、それほどの長期間にわたって都を留守にし、湯にとどまったのか。単なる物見遊山にしては日数が長すぎ、当時の険しい山道を考えれば移動そのものも命がけの行程だったはずだ。古代から今日に至るおよそ1400年のあいだ、日本人は誰が、何日、何のために温泉を目指してきたのだろうか。

ひと廻り七日と、農閑期に持ち寄る米袋

古代の記録をたどると、温泉はまず天皇や皇族の行く場所として現れる。舒明天皇の行幸から16年後の647年には孝徳天皇が同じ有馬で82日間滞在し、斉明天皇や天智天皇も牟婁の湯(現在の和歌山県・白浜温泉)や伊予の湯(現在の愛媛県・道後温泉)へ足を運んだ。いずれも数週間から数か月に及ぶ長期の逗留だ。当時、薬や外科治療の技術が乏しかった社会において、地中から湧き出る温かい水は、身体の不調を整える数少ない手立てだった。

やがて中世に入ると、温泉の利用者は貴族や僧侶、そして戦で傷を負った武士たちへと広がっていく。この時代に定着したのが「湯治」と呼ばれる療養の作法だ。温泉に入る期間には決まった単位が生まれ、7日間を「一廻り」と数え、病や傷を治すには少なくとも三廻り、つまり21日間の滞在が必要だと考えられるようになった。

この「7日」という数字は、現代の私たちの感覚からするとずいぶん長く思える。土日に1泊2日で出かける温泉旅行とは、時間の物差しそのものが違う。当時の湯治は、湯に入ってすぐに帰るようなものではなく、何度も湯に浸かっては休み、体調の波をやり過ごしながら、身体が本来持っている治癒力を引き出すための生活そのものだった。

近世になると、この湯治の仕組みを農民や町人といった庶民が利用し始める。特に農村の人々にとって、温泉は田植えや稲刈りの重労働で疲れ切った身体を回復させる切実な場だった。農作業が一段落する農閑期になると、村人たちは米や味噌、薪などの食糧や燃料を背負って湯治場へと向かった。

当時の温泉宿は「木賃宿」と呼ばれ、宿泊客は部屋と台所を借り、持参した食材で自炊をしながら数週間を過ごした。宿の主人が上げ膳据え膳でもてなすような現代の旅館像とは大きく異なり、あくまで生活の拠点を一時的に温泉地へ移す形態だ。

湯治場での滞在は療養が主目的だったが、それは決して暗く閉ざされた時間ではなかった。炊事場で顔を合わせた見知らぬ土地の客と自慢の野菜を分け合い、同じ湯船に浸かりながら各地の作柄や世間話を交わす。時には近隣の神社仏閣へ散策に出かけたり、門前で開かれる市を覗いたりする。長期滞在という条件が、必然的に人と人との交流や小さな遊山の時間を生み出していた。

樽を担ぐ人足と、関所手前の「一夜湯治」

江戸時代に入り、街道や宿場町が整備されると、温泉をめぐる人の動きと湯の運ばれ方に新しい展開が生まれた。その象徴的な出来事が、徳川将軍家による「御汲湯」だ。

初代将軍の徳川家康は熱海の湯を気に入り、自ら逗留しただけでなく、病気療養中だった武将の吉川広家へ見舞いとして熱海の湯を樽に詰めて送らせた記録がある。これがのちに制度化され、4代将軍家綱の頃からは熱海の大湯で汲み上げた源泉を檜の樽に詰め、江戸城まで運ばせるようになった。

8代将軍吉宗の時代には、9年間で3643樽もの湯が江戸城へ運ばれた。熱海から江戸までの距離はおよそ100キロメートル。最初は人足が昼夜を徹して樽を担ぎ、のちには網代港から船でも運ばれたという。熱海の大湯は90度を超える高温のため、江戸へ着く頃にはちょうど良い湯加減になっていたとも伝えられる。身体を湯へ運ぶのではなく、湯を人のもとへ運ぶ。権力者によるこの大規模な輸送は、湯へのアクセスがいかに贅沢なものであったかを物語っている。

一方で、一般の庶民の間では、より手軽に温泉へ行きたいという需要が高まっていた。それを後押ししたのが、相撲の番付表を模して作られた「温泉番付」や、各地の温泉の効能や道案内を記した案内書の出版だ。

1817年頃から広く出回った『諸国温泉功能鑑』では、大相撲にならって東の大関に草津、西の大関に有馬が据えられ、行司役には熱海、勧進元には熊野本宮(湯の峰)といった由緒ある温泉が配置された。当時の番付表には最高位の「横綱」がなく、大関が実質的な筆頭だ。江戸の町人たちは一枚の刷り物を眺めながら、それぞれの湯の特徴や距離を比べ、旅の計画を立てた。

こうした情報の大衆化は、滞在の長さにも変化をもたらす。その端的な例が、箱根で起きた「一夜湯治」をめぐる争いだ。江戸から箱根へ向かう場合、箱根湯本や塔之沢といった温泉は「箱根関所」の手前に位置していた。つまり、厳しい通行手形を持たなくても訪れることができた。

江戸後期の1805年、街道の宿場である小田原宿と箱根宿が、幕府の道中奉行に対して訴え出た。湯本などの温泉宿が、本来の長期湯治ではなく、旅人を1泊2日の「一夜湯治」と称して宿泊させて客を奪っている、という訴えだった。

これに対し、湯本側は「ひとつの湯に長く留まるだけでなく、箱根の湯を巡り歩くのも湯治の形である」と反論した。幕府は最終的に「一夜湯治苦しからず」との裁定を下し、宿場以外での短期宿泊を公に認めた。病気治療のために数週間こもる場だった温泉が、関所の手前で気軽に1泊して帰る行楽の目的地へと足を踏み入れた瞬間だった。

西洋医学の物差しと、汽車が縮めた三日間の距離

明治時代に入ると、温泉を取り巻く環境は技術と制度の両面から根本的に変わった。変革を象徴する出来事のひとつが、西洋医学の導入と科学的な泉質分析だ。

明治政府が東京医学校(現在の東京大学医学部)に招いたドイツ人医師エルヴィン・フォン・ベルツは、日本の温泉地を巡り、その医学的価値を科学的な視点で評価した。1878年に初めて草津を訪れたベルツは、強酸性の泉質や高原の気候を称賛し、入浴法や衛生管理についての提言をまとめた。さらに1886年には、内務省によって全国の鉱泉を調べ上げた『日本鉱泉誌』が編纂され、各地の温泉成分が数値として記録されるようになった。

効能があいまいな民間療法として扱われていた湯治が、科学的な根拠を持つ保養・療養へと位置づけ直されたのだ。ベルツは草津や伊香保、箱根などをヨーロッパのような近代的保養地(クアオルト)に育てようと構想し、政府高官や知識人の間でも温泉保養への関心が高まった。

これと並行して起きたのが、地下から湯を掘り出す技術の進歩である。江戸時代までの温泉地は、自然に地表へ湧き出た湯を村の共同浴場(惣湯)に溜め、宿泊客は宿から共同浴場へ通う形が一般的だった。各宿に独自の風呂を引くほどの湯量がなかったためだ。

しかし明治期に「上総掘り」と呼ばれる人力の井戸掘り技術が温泉地に応用されると、状況は一変した。大分県の別府では、1880年代以降に湯突きが盛んになり、源泉数が爆発的に増加した。宿ごとに敷地内から湯を掘り当てることが可能になり、各旅館が個別に大浴場を備える「内湯」の文化が急速に普及していく。

そして何より、温泉と人の距離を決定的に縮めたのは鉄道網の発達だった。

江戸時代、東京から熱海へ行くには徒歩で片道3日近くを要した。それが東海道本線の開通や、1934年の丹那トンネル開通によって、わずか2時間足らずで結ばれるようになった。箱根でも登山鉄道が山の上までレールを伸ばし、別府には瀬戸内海航路の大型船とともに日豊本線が乗り入れた。

片道に数日かかっていた時代、温泉へ行くことは「長期滞在しなければ割に合わない旅」だった。しかし汽車に乗れば数時間で到着できるようになると、滞在日数は2泊3日や1泊2日へと一気に縮まる。交通技術の革新が、人々の休暇の過ごし方と温泉地の収益構造を、長期の湯治から短期の観光へと作り変えていったのだ。

湯口の温度と、脱衣所に残る外湯の名残

今日、私たちが温泉旅館や公衆浴場を訪れるとき、かつて1400年のあいだに起きた変化の痕跡は、脱衣所や浴室のあちこちに見つけることができる。

たとえば、脱衣所の壁に必ず掲げられている「温泉分析書」だ。泉温、湧出量、pH値、そしてナトリウムイオンや硫酸イオンといった成分の一覧表。これは明治期にベルツらが主導した科学的調査と、内務省による衛生管理の流れが現代の温泉法へと引き継がれた結果だ。

また、温泉街の構造そのものにも歴史の地層が残っている。兵庫県の城崎温泉や長野県の渋温泉を歩くと、宿泊客が浴衣姿で下駄を鳴らし、外湯(共同浴場)を巡る風景に出会う。これは旅館が内湯を持つことを制限し、源泉を地域全体で共同管理してきた時代の名残だ。

一方で、大きな旅館の館内に複数の大浴場や露天風呂が備わっている風景は、明治以降の掘削技術によって宿ごとの源泉確保が可能になった時代の産物だといえる。

湯口から注がれる湯の勢いや温度にも目を向けてみたい。環境省がまとめている温泉利用状況の統計によると、日本全国には約2万8000か所もの源泉が存在し、その総湧出量は毎分約250万リットルに達する。これは一般的な家庭用浴槽(約200リットル)を、1分間に1万2000杯以上満たすことができる量だ。

この膨大な湯が、自然湧出だけでなく動力ポンプによって地下深くから汲み上げられ、パイプを通じて各浴槽へと配分されている。目の前で湯船にあふれる湯は、何百年ものあいだ試行錯誤されてきた揚水と配湯の技術の上に成り立っている。

「たどり着く方法」が変われば、湯の役目も変わる

環境省の令和6年度の統計によると、全国の温泉宿泊施設数は1万3000軒を超え、年間の延べ宿泊者数は1億人前後にのぼる。さらに現代では、宿泊を伴わない「日帰り入浴」の施設が全国各地に整備され、週末の数時間だけ湯に浸かって帰宅する過ごし方がごく一般的になった。

古代において、温泉は限られた特権階級が数か月を過ごす神聖な場だった。中世から近世にかけては、庶民が米袋を担いで歩き、21日間をかけて身体を癒す生活の場になっていく。明治には科学と鉄道が保養の価値を与え、戦後は自家用車や高速道路の普及によって滞在時間がさらに細分化された。

こうして通史を眺め直すと、温泉の歴史とは単に「湯の成分がどう優れているか」の歴史ではなかったことがわかる。それはむしろ、道が拓かれ、乗り物が進化し、掘削技術が開発されることで、「誰が、どれだけの時間をかけて湯船にたどり着けたか」というアクセスの歴史そのものだった。

数か月の行幸から、三週間の自炊湯治へ。三日間の徒歩から、二時間の鉄道旅行へ。そして今や、私たちは車や電車を使って数時間で温泉地を訪れ、その日のうちに自宅のベッドへ戻ることができる。

いま私たちが楽しんでいる気軽な温泉旅は、自然発生的な伝統の姿そのものではなく、1400年にわたる移動手段と技術の積み重ねがたどり着いた、ひとつの到達点なのである。

SOURCES

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  2. 江戸時代の湯治旅 ──温泉と湯治に対する興味関心 │72号 温泉の湯悦:機関誌『水の文化』│ミツカン 水の文化センター本文執筆時に Google Search で参照(観測 2026-09-01)
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  5. 温泉の歴史(近代)※明治時代~昭和初期 | 日本温泉協会本文執筆時に Google Search で参照(観測 2026-09-01)
  6. 湯治の歴史 健康を求める旅人たち|検索詳細|地域観光資源の多言語解説文データベース本文執筆時に Google Search で参照(観測 2026-09-01)
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  8. 江戸時代|熱海市公式ウェブサイト本文執筆時に Google Search で参照(観測 2026-09-01)
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  10. 〈一夜湯治〉で花開く「寄り道」だった温泉地──箱根温泉の時代に応じた施策 │72号 温泉の湯悦:機関誌『水の文化』│ミツカン 水の文化センター本文執筆時に Google Search で参照(観測 2026-09-01)
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