MAGAZINE / 11 · SULFUR
硫黄の匂いの正体
温泉街で鼻を突く匂いは、硫黄の単体ではなく硫化水素ガスによるものである。万座と月岡の泉質の差が示すように、液性の違いが香りの強さや湯の色を分けている。地下の化学反応と現場の換気が、この匂いを保っている。

温泉街で鼻を突く特有の匂いは何を表しているのか
環境省が2004年に全国2万余りの温泉利用施設へ調査票を送り、主たる泉質を尋ねたことがある。硫黄泉と答えた施設は8.1パーセントだった。12軒に1軒あるかどうかの数字である。だが、山あいの温泉地に差し掛かり、宿の前に車を停めて外へ出た瞬間、その数字の控えめさを吹き飛ばすような強い匂いが鼻を突く。
いわゆる「硫黄の匂い」と呼ばれる独特の刺激臭は、その土地に湯が湧いていることを一瞬で告げる目印になっている。ゆで卵を割った時のような、あるいは少し焦げたようなあの匂いを嗅ぐと、多くの人は地下から立ちのぼる硫黄の成分をそのまま吸い込んでいるのだと思い込む。
だが、近代化学の知見に照らし合わせると、この思い込みは最初の前提から崩れる。純粋な硫黄の単体は、常温の固体においてまったくの無臭だ。火薬の原料やゴムの加硫に使われる黄色の結晶に顔を近づけても、あの温泉街の匂いはしない。無臭の物質がなぜ温泉の象徴のような匂いとして記憶されているのか。鼻が捉えている実体は何で、その匂いは湯の何を表しているのだろうか。
硫黄の単体は無臭であり地下の熱水反応が硫化水素を生む
1777年、フランスの化学者ラボアジェは、硫黄がそれ以上分解できない元素であることを実験で示した。それ以来、科学の世界ではこの元素の性質が詳しく調べられてきた。原子番号16の硫黄(S)は、常温では淡黄色の脆い結晶として存在する。それ自体が勝手に気体となって空中を漂い、人の嗅覚を刺激することはない。
温泉地で鼻を突く匂いの主は、硫黄の単体ではなく、地下のマグマ活動によって生み出される硫化水素(H₂S)という無色の気体だ。
火山性の地帯では、地下数キロメートルから数十キロメートルの深部にマグマだまりが存在する。マグマから放出された火山ガスには、二酸化硫黄や硫化水素などの多様なガス成分が含まれている。これらが地下を浸透してきた天水や地下水と出会い、高温高圧の条件下で激しく混ざり合う。
水に溶け込んだ硫黄化合物は、地殻の熱水反応を経て硫化水素ガスや各種の硫黄イオンへと姿を変えていく。火山フロントに沿って連なる山々では、こうして地下で仕込まれた気体が熱水に押し流され、あるいは割れ目を伝って地上へと噴き出す。人が温泉街の入口で嗅いでいるのは、地中の化学反応で作られたこの硫化水素ガスの分子が、大気中に逃げ出した瞬間の匂いなのだ。
硫黄の化学形態の違いが湯の白濁と香りの強さを分ける
環境省が改訂を重ねてきた「鉱泉分析法指針」では、温泉水1キログラム中に総硫黄が2ミリグラム以上含まれるものを硫黄泉と規定している。この基準を満たす温泉の中でも、湯の濁り方や匂いの立ち方は驚くほど一様ではない。その差を生み出す主因は、湯に含まれる硫黄がどういう化学形態を取っているかにある。
総硫黄の内訳は、主に遊離硫化水素、チオ硫酸イオン、硫化水素イオンの3つに分かれる。このうち空気中に気体として飛び出し、強い匂いを放つのは遊離硫化水素だ。
遊離硫化水素を多く含む湯は、強酸性から酸性の環境に多く見られる。湧き出たばかりの湯は無色透明に近いことが多いが、空気に触れて酸素と交わると、溶けていた硫化水素が酸化されて微細な硫黄の粒子が水中に析出する。この粒子が光を乱反射させることで、湯船の水は白濁し、底が見えないほどの乳白色へと変化する。
反対に、硫化水素イオンの形で硫黄が多く溶けている湯では、成分が水中に安定して留まるため、激しいガス化が起きにくい。湯船に浸かっても鼻を突くような刺激臭は立たず、湯の色も透明度を保ちやすい。白く濁って強烈に香る湯と、透き通っておだやかに香る湯の違いは、湧き出た湯の中で硫黄がどの形態を選んでいるかによって決まる。
酸性の万座は白く濁って強く香り、アルカリの月岡は緑に澄む
同じ硫黄泉という看板を掲げていても、湧出地の地質と水素イオン濃度(pH)の違いによって、湯の表情は対極と言えるほどに分かれる。
標高1800メートルの高地に位置する群馬県の万座温泉は、酸性硫黄泉を引く宿が軒を連ねる。万座の湯はpH2前後の強い酸性を示し、分析書を見れば遊離硫化水素が突出した数値で記録されている。酸性の強い環境下では、硫化水素は水中に溶け込んでいられず、次々と気体となって大気中へ抜け出していく。あの強烈な香りと、湯船を覆う濃厚な乳白色は、酸性度の高さが硫化水素を激しく追い出した結果だ。
これと好対照をなすのが、新潟県の日本海側に近い月岡温泉だ。月岡の湯は全国でも指折りの総硫黄量を誇りながら、pH8前後の弱アルカリ性を示す。アルカリ性の環境では、硫黄成分の多くが気体にならず、硫化水素イオンなどの形で水の中にしっかりと留まる。
そのため、月岡温泉の湯は成分がきわめて濃厚でありながら、ガスが空中に過剰に飛散せず、光の吸収と散乱によって澄んだエメラルドグリーンに見える。湯船に浸かると肌に吸い付くような滑らかさがあり、香りは万座のような刺激的な立ち方とは異なる重みを持つ。匂いの強弱は成分の絶対量だけで決まるのではなく、液性という地質の条件が支配している。
泥湯温泉の事故から12年後、浴室の換気孔は2か所以上と決まった
宿の脱衣所を抜けて内湯の扉を開けると、湯口から注がれる湯の勢いや湯船の広さ、天井の高さによって香りのこもり方が異なることに気づく。硫化水素は特有の匂いを持つだけでなく、空気よりわずかに重く、高濃度になると人の呼吸器に影響を及ぼす性質を持つ気体でもある。
2005年12月、秋田県湯沢市の泥湯温泉で、宿の近くに溜まった硫化水素によって家族4人が亡くなった。この事故のあと、温泉地の硫化水素への向き合い方は全国で見直されていく。環境省は2017年9月、総硫黄を1キログラム中2ミリグラム以上含む湯を公共の浴用に使う施設が守るべき設備の基準を、告示第66号として定めた。浴室の換気孔は2か所以上設け、そのうち1か所は床と同じ高さに置くこと。浴槽の湯面から10センチ上で20ppm、床から70センチ上で10ppmを超えないこと。ガスが低い所に溜まるからだ。
硫黄泉を引く施設の現場では、湯口付近の空気の流れを計算し、換気設備を常時稼働させながら湯が注がれている。湯船の縁から溢れ出る湯の温度を保ちつつ、揮発したガスが低い場所に溜まらないよう、床面の排水溝や排気ファンの位置に細心の注意が払われる。地下から来た湯をそのまま湯船へ引き込む仕事は、目に見えない気体の通り道を管理する仕事と、いつも一組になっている。
温泉街の匂いは、地下で続く反応と浴室の換気の両方を伝えている
温泉街の坂道で鼻をかすめるあの匂いは、気化した硫化水素の分子が鼻の嗅覚受容体に届いた瞬間に起きる物理現象だ。情緒でも温泉らしさの演出でもなく、地下深くでマグマと熱水が交わった場所が、冷めないまま地表へ通じているという事実だ。
脱衣所の壁に掛かった温泉分析書の数字を細かく追わなくても、鼻に届く刺激の鋭さと湯船の色の違いだけで、その湯が強酸性の中でガスを放っているのか、アルカリの湯の中で成分を抱え込んでいるのか、地中の状態がおおよそ分かる。
無臭の元素である硫黄が、地下の圧力と熱、そして水と出会って硫化水素となり、地殻の割れ目を抜けて地上へと届く。温泉街を包む強い匂いは、足元の底深くで今も続いている化学反応と、湯を引く現場が毎日回している換気を、同時に伝えている。
ゆーたなかお
温泉天国 - Onsen Paradise 運営旅と食と温泉好き。どこにでもいます。
SOURCES
- IV−2. 温泉にまつわる話 | 地下水・温泉-温泉を知ろう | 神奈川県温泉地学研究所本文執筆時に Google Search で参照(観測 2026-09-10)
- 温泉の化学的考察本文執筆時に Google Search で参照(観測 2026-09-10)
- 硫黄泉の匂いと色:白濁とタマゴ臭の正体本文執筆時に Google Search で参照(観測 2026-09-10)
- 第6973号 硫黄は無臭 [ブログ] 川口液化ケミカル株式会社本文執筆時に Google Search で参照(観測 2026-09-10)
- 実は硫黄は無臭だった!じゃああの「臭い」の正体は?/人類なら知っておくべき地球の雑学(148) - レタスクラブ本文執筆時に Google Search で参照(観測 2026-09-10)
- 知らないと危険!硫化水素の匂いとその影響を解明 - オゾンマート本文執筆時に Google Search で参照(観測 2026-09-10)
- 温泉で硫化水素の効能とリスク・安全対策を徹底解説 – 中野市の温泉なら日常の喧騒から離れ心と体を癒すまだらおの湯本文執筆時に Google Search で参照(観測 2026-09-10)
- 泉質は地質が決める|日本地質マップで見る「湯の分布のクセ」 | 〜温泉の裏側を知る〜 ひねこじた温泉本文執筆時に Google Search で参照(観測 2026-09-10)
- 硫黄泉の効能や美肌効果と全国おすすめ温泉地ランキング徹底ガイド - ラドン・ラジウム温泉 適応症・入り方ガイド|山梨の日帰り湯~とぴあ本文執筆時に Google Search で参照(観測 2026-09-10)
- 万座へようこそ - 万座しぜん情報館本文執筆時に Google Search で参照(観測 2026-09-10)
- 月岡温泉の温泉力 | 知ってびっくり、入って納得の「温泉力」|月岡温泉 摩周 公式HP|新潟県の温泉旅館本文執筆時に Google Search で参照(観測 2026-09-10)
- 水質基準の「硫黄臭」と「硫化水素臭」の違いは何ですか? – 公益社団法人 日本地下水学会本文執筆時に Google Search で参照(観測 2026-09-10)
- 温泉と硫化水素 – 株式会社エコニクス本文執筆時に Google Search で参照(観測 2026-09-10)
- お湯の香り:温泉会議本文執筆時に Google Search で参照(観測 2026-09-10)
- 硫黄泉の温泉の基礎知識と効果を徹底解説|日帰りでの楽しみ方や温泉宿・旅館の選び方も - ラドン・ラジウム温泉 適応症・入り方ガイド|山梨の日帰り湯~とぴあ本文執筆時に Google Search で参照(観測 2026-09-10)